神さまは私のベストフレンド

2019年04月01日

 私は、1917年シャンハイ市の小さな島(崇明県)に生まれました。父母兄弟家族全員カトリック信者で6人兄弟(うち兄2人は既に他界)の末っ子でした。中国にはカトリック信者は少なく、周囲の殆どは仏教徒や無宗教の家で、供養やお祭りの仕方など私たちの家とはかなり違っており、母親からは、「うちはカトリックなのだから、他のには触ってはだめ」と言われて育ちました。

 バスも電車もなく、歩くだけが移動手段だった当時、8マイル離れた所にある教会に歩いて行くのは小さな子どもにはできませんでした。少し大きくなってからは、朝早く暗いうちに、鶏の鳴く頃家を出て、日の高く上る頃やっと教会に辿り着いたものでした。たいへんでしたが、懐かしい思い出でもあります。

 修道会に入る年頃になってシスターLの前に現れたのは、フランシスコ会の修道院でした。彼女は約3年の間、毎朝ミサに出て、友達とよく祈り、また、シスター方と一緒に働きました。彼女達の祈りは素晴らしく、その姿は立派でさながら天使のようで、シスターLは憧れていました。けれども、フランシスコ会のシスターが、「私たちの所に来ないか。」と誘ってくれた時、私は、彼らは確かに素晴らしいけれど、自分の行く所はここではないような気がしていました。
 イエズス会のスペイン人の聴罪師が私の心を知って、聖心会に行ったらどうかと勧めてくれました。聖心会はフランス地区にあって、私はその辺りをよく知らなかったのですが、友人が連れて行ってくれました。その日は1時頃着いて、受付にいらしたドイツ人の物腰の柔らかい、ご高齢のシスターに「レベレント・マザーにお目にかかりたいのですが。」と告げたら、お祈りの時間が終わるまで待つように、言われました。

 1時30分になって現れたマザーに「聖心会に入りたいと希望しています。」と言ったところ、マザーは、待つようにおっしゃいました。その後3ヶ月は、会と私自身とが互いに知り合う期間でした。私は「勉強が好きではなく、あまりしていません。」と言いましたが、マザーは「そんなことは関係ありませんよ。祈ること、働くことが重要なのです。」とおっしゃってくださったのでした。3ヶ月間の仕事はリネン、掃除、裁縫でした。私は自分は若いからと一生懸命働き、何からでも学び、そして懸命に祈りました。
 やがて、マザーから「家に帰って聞いてくるように」言われた時、父は私が13才の時に既になくなっていたので、母に確かめました。すると、「あなたがそのように思うのはとても嬉しい。行きたいのなら行って良い。ただ、家の事を何もしたことがないのに、大丈夫なのか」と、母は尋ねました。母には「自分は若いし、これから勉強もする、祈りについては大丈夫。神さまのためなら、何をすることになっても良い」と伝えました。

 1948年、私たち3人は、終生誓願を中国人で最初に立てました。1人は戦後すぐにミッショナリーとして日本に来ましたが、シスターLはもう一人のシスターと1951年、シャンハイから東京三光町にやって来ました。
 バチカン公会議以後、聖心会もキリスト教教会も様相がまったく変わりました。シスター、マザーの呼び方の差はなくなり、皆同じシスターになりました。
 また、4番目の「教育に生涯を捧げるという誓願」が長い間自分の中ではっきりしていなかったけれど、シスターBRIGID KEOGHの下さったコメントによって、腑に落ちた体験もしました。教育はどのジェネレーションに対しても、どの方面にでも、いつでもどこでも必要なのですから。
 神さまは私のベストフレンド。神さまは私に全てをお与え下さる。感謝の言葉しかありません。神さまを愛し、奉仕し、ミッションにかける。どのような仕事も神さまの愛のためにするのです。

(F.T.L.)