遠回りをして
カトリックに関してはまったく何の知識もなかった私だったが、(公立)大学1年のときの教養英語の担任が熱心なカトリックの信者だったことから、カトリックを知ることになった。小さいときから、学校の先生になりたい、あるいは、恵まれない子供たちのために奉仕する仕事をしてみたい・・・という夢を持っていた。
受洗後、小林聖心で行われた、教会の若い女性たちのための黙想会に参加して、はじめて私は聖心会の、"み心の愛"、"子女の教育"ということを聞いたり、本を読んだりして、私の心の中に「この愛をもって、ここで、私は教育に一生を捧げたい・・・」といういわゆる修道生活への希望の芽生えを感じていた。
しかし、私の希望はすぐ叶えられたのではなかった。私の思い通りではなく、主がお思いになる道を通り、主が準備してくださった時間を過ごしてから・・・のことであった。
まず、経済的な理由で、大学を一時中断して、田舎の中学校に就職した。1年後、どうしても勉強を続けたいと大学に戻り、アルバイトや奨学金で卒業するまで頑張った。私は英語の教員免許を持ち、副専攻に国語と、小学校の免許を持っていた。しかし、当事多くの外国人の修道女によって英語教育を行っていた聖心では、私のようによそからきた英語の教師は採用しなかったのである。がっかりして帰ってきた私に、聖心から電話が来た。九州の他の修道会が経営するカトリック学校で国語の教員を募集しているから行ってはどうかと言うのであった。「九州まで・・・?」でも、私はどこでも良い、ご聖体のあるところに居たい、カトリック学校なら・・・と行く気になった。
しかし当事の、しかも外国人の修道女の多い学校では就職などの手続きの事務が遅く、いったいどうなっているのか・・・やきもきする日が続いた。やっと学校に到着したところ、個室はなく、寝る部屋は学校の保健室。昼間は職員室で過ごし、夜は、生徒が帰った後保健室のベッドで寝た。いきなり高3の担任。クラスのほかに、進学指導と就職活動をも担当させられた。一生懸命に勤めた。驚いたことには、こんな遠くなのに、ここにも聖心の卒業生が4人教員になっていた。わたしはここで、聖心についていろいろな話を聞くことが出来、とてもうれしかった。そして、ますます聖心に心を惹かれていった。毎晩、聖堂の御心のご像の前で出来れば聖心に入れていただきたい、と一生懸命にお祈りした。1年後、聖心会の管区長から、東京の聖心の小学校で教員が必要なのでよければ来てほしいとの連絡が来た。もちろん私は、喜んで今の学校から去ったのである。
東京の1年間はとても楽しく、教室で、寄宿で、すべてを吸収しよう、したいという毎日であった。ところが、1年後、管区長から「あなたはやはりよその会のほうがあっているようだ」と言われてしまった。どうしよう・・・と思っていると、前に止めた九州の修道会から、うちに来てはどうかと招きがあった。でも私は聖心の管区長に「もう1年試させてください」と願った。管区長は「いいでしょう」と言ってくださり、もう1年東京で勤めることになった。
そして3年目の始め、管区長は「私はめったに考えを変えないけれど今回、考えを変えました」と入会を許可してくださったのである。
もう数年で初誓願から50年を迎える年になった。ここまで、主の憐れみと、御手の支えがなかったら到底今日まで聖心会員としていられなかったかもしれないことを強く感じている。私が遠回りをしたと思った年月は、いきなり聖心の修練院に入っていたら続かなかったかもしれない私に、前もって、聖心以外の学校の経験、聖心の卒業生との出会い、修道者との毎日の関わりの経験、修道生活に対する知識と心の準備をもたせておこうと思われた主のやさしいお心によって与えられた期間だったとしばしば感謝のうちに思い出すのである。初誓願以来、教壇で小、中高生に接し、時には、修道会の本部で働き、いまは、かつて活躍され、引退しておられる高齢の修道女のお世話をしながら過ごしている。聖心会はわたしの弱さ、性格、などを寛大に受け入れ、いろいろな養成の機会を与え、会員としての成長を助けてくださった。
性格はせっかちだが、成長は遅い私である。今は、かつての教え子たちや、周りのお年のシスターたちに囲まれてまだまだ教えられ、成長させられている。昨年は、私を受け入れて下さったもとの管区長の最後をこの共同体で看取る恵みをいただいた。これから、主がお許しくださる命の期間を、主と、会への感謝の心で過ごしたいと思っている。(S.K.)