この路に呼ばれて
主イエズスは、たびたびみことばの中で召命への呼びかけに招かれた。
このブログの内容はすべて聖心会のシスター個人の物語です。(各ブログの日付は更新日です)
主イエズスは、たびたびみことばの中で召命への呼びかけに招かれた。
修道院に私が入会した「きっかけ」は今から思えば何であったのか分からないのです。
これは私が小学生のときからずっと抱いていた夢でした。
自分の家が教会になる。これは建物や制度のことを指しているのではありません。
「みんなの心のふる里」「疲れたときに、誰でもが行ってみたくなる場所」
「日曜日には、みんなで私の家に遊びに来てね」ということです。プロテスタント系の家庭に育った私の願いでした。
人は生まれると名づけられ、その名で呼ばれる。母は私の名で新生児に呼びかけてその将来を祈願する和歌を詠み、書き残してくれた。「ひろやかな心に神を仰ぎつつ、人を愛せよ、めぐし***よ」と。
みなさんにとって、「食卓を囲む」ということを聞いたとき、どのようなイメージが浮かんでくるでしょうか。どのような雰囲気が心の中に湧いてくるでしょうか。「食卓を囲む」というのは、人々がそこに集い暖かく楽しい雰囲気ではないかと思います。いっしょに食事をすることにより、交わりを深め、親しさが増します。体も心も満たされることにより、エネルギーが湧いてきます。
私は、1917年シャンハイ市の小さな島(崇明県)に生まれました。父母兄弟家族全員カトリック信者で6人兄弟(うち兄2人は既に他界)の末っ子でした。中国にはカトリック信者は少なく、周囲の殆どは仏教徒や無宗教の家で、供養やお祭りの仕方など私たちの家とはかなり違っており、母親からは、「うちはカトリックなのだから、他のには触ってはだめ」と言われて育ちました。
I市にカトリック教会が出来たのは私が高校生になった頃でした。近郊の村々からも集まって来た信者や求道者で教会は活気に満ちていました。日曜日のミサ後、受洗して間もない高校の音楽の先生のオルガン伴奏で、聖歌の練習等もしました。私が学んでいた小林聖心では聖歌の伴奏はシスター達がしていました。